「まち全体が旅館」で守るべき粋な作法

柳並木が揺れる川沿いを、カランコロンと下駄の音を響かせながら浴衣姿の人々が行き交う。手には、七つある外湯を巡るための湯かご。ここは、兵庫県の北部に位置する城崎温泉。この町には、他にはないユニークなコンセプトがあります。それは「まち全体が、ひとつの旅館」という考え方です。
この町では、個々の宿が「客室」、温泉街の道が「廊下」、そして点在する七つの外湯が「大浴場」に見立てられています。宿泊客は、自分の宿の浴衣を着て、下駄を履き、まるで旅館の中を歩くように、自由に外湯めぐりを楽しむのです。
このガイドは、あなたがこの「巨大な旅館」の最高のゲストになるためのお手伝いをします。城崎温泉の本当の魅力は、ただ温泉に浸かることだけではありません。それは、この町が大切に育んできた「外湯めぐり」という文化に参加し、他の旅行者や町の人々と共に、心地よい一体感を創り上げることにあるからです。ここで紹介する心得は、この町の流儀に敬意を払い、あなた自身の滞在をより豊かで忘れられない体験にするための鍵となります。
さあ、まずは宿で浴衣に着替えるところから。あなたも「城崎旅館」の一員となって、この素晴らしい物語の旅を始めましょう。
カランコロンという下駄の音に、1300年の歴史と文豪たちの思索の響きが重なります。
城崎温泉の歴史は、奈良時代にまで遡ります。僧である道智上人(どうちしょうにん)が、人々の病を癒やすため千日の修行を行った末に、温泉が湧き出したのが始まりとされています。また、足に傷を負ったコウノトリが、湧き出る湯で傷を癒やしていたことから温泉が発見された、という心温まる伝説も残っており、今でも「コウノトリの郷」として知られています。
城崎温泉の名を日本文学史に刻んだのが、文豪・志賀直哉です。1913年、彼は電車にはねられ重傷を負い、その療養のためにこの地を訪れました。この時の体験と思索を基に書かれた短編小説が、名作『城の崎にて』です。作中で描かれる生と死への深い洞察は、城崎の静かな自然と温泉がもたらしたものと言えるでしょう。温泉街には、ゆかりの宿や文学碑が点在し、今も文学の香りが漂っています。

江戸時代から、城崎温泉は京の都から近い湯治場として賑わっていました。当時は、各旅館に内湯がなく、客は外の共同浴場(外湯)に通うのが一般的でした。この習慣が、やがて「外湯めぐり」という城崎ならではのユニークな温泉文化として定着していったのです。浴衣と下駄は、この外湯めぐりのための「正装」。宿泊客が浴衣で歩くことは、「私は城崎旅館のゲストです」という証であり、町全体で歓迎される証でもあるのです。
城崎温泉は、古い伝統を守りながらも、新しいおもてなしの形を模索し続けています。近年では、外国人観光客にも分かりやすい多言語対応のデジタル案内板の設置や、地元の若者が経営する新しいスタイルのカフェやバルが増えています。また、温泉資源の保護や、プラスチックごみの削減など、サステナブルな観光地を目指す取り組みも積極的に行われており、旅行者もその一員として協力することが期待されています。
城崎温泉の主役「外湯めぐり」。その楽しみ方をマスターしましょう。

城崎温泉には、それぞれ泉源や趣が異なる七つの外湯があります。
「城崎旅館」の最高のゲストとして、この町の文化を楽しみ、守るための心得です。
七つの外湯は、旅館の「大浴場」です。しかし、浴槽はそれほど大きくありません。特に週末は混み合います。一人が長時間浴槽を占領せず、多くの人が楽しめるように「譲り合う心」を持ちましょう。湯に浸かるのは数分程度にし、次の外湯へと向かうのが粋な楽しみ方です。 文化背景:日本の銭湯文化に見る「共同体」の意識 日本の銭湯(共同浴場)は、単に体を洗う場所ではなく、地域の人々が交流するコミュニティの場でした。そこでは、皆が気持ちよく使えるように、互いに配慮し合うのが当然のマナーとされています。外湯めぐりも、この精神に基づいています。 |
浴衣を着る際は、必ず「左前(ひだりまえ)」、つまり自分の左側の身頃が上になるように合わせます。逆の右前にするのは死装束の着方なので、絶対に間違えないようにしましょう。浴衣を着たら、自然と振る舞いも上品になります。 文化背景:着物がもたらす「ハレ」の気分と心の切り替え 普段着と違う特別な衣装である着物や浴衣を着ると、日本人は気分が「ハレ(非日常)」に切り替わり、背筋が伸びるような感覚を覚えます。この衣装にふさわしい振る舞いをしよう、という意識が自然と生まれるのです。 |
下駄が奏でる「カランコロン」という音は、城崎温泉の風情の一つです。しかし、深夜や早朝に大勢でわざと大きな音を立てて歩くのは騒音になります。特に夜の柳並木は、静けさの中に響く控えめな下駄の音こそが美しいのです。 文化背景:「間」と「余韻」を大切にする日本の美意識 日本の芸術や音楽では、音と音の間の「間(ま)」や、音が消えた後の「余韻(よいん)」が非常に大切にされます。城崎の夜も同じです。賑やかさだけでなく、静かな時間とのコントラストの中にこそ、深い趣が感じられます。 |
外湯めぐりでは、小さなタオル(手ぬぐい)を一本持って行きます。浴場から脱衣所へ上がる前に、このタオルで体の水気をしっかりと拭き取りましょう。脱衣所の床をびしょ濡れにしないことは、次に入る人への大切な配慮です。 文化背景:他者への配慮が生む「清潔」という価値観 日本社会では、「清潔」であることが非常に高い価値を持ちます。そしてその清潔さは、個人の努力だけでなく、「他人に不快感を与えない」という相互の配慮によって保たれています。 |
浴衣姿の人が多い温泉街は絶好の被写体ですが、人物を撮影する際は必ず許可を得るか、個人が特定できないように配慮してください。そして、外湯の入口や脱衣所、浴場内での写真撮影は絶対に禁止です。 文化背景:個人の肖像権と「迷惑をかけない」という暗黙のルール 日本では、他人に迷惑をかけないことが社会生活の基本です。無断で人を撮影することは、プライバシーの侵害であり、相手に不快な思いをさせる「迷惑行為」と認識されています。 |
冬の城崎温泉は、最高級の「松葉ガニ」のシーズンです。旅館で提供されるカニ料理は、まさに芸術品。食べ方が分からない場合は、遠慮なく旅館のスタッフに尋ねましょう。きれいに、そして余すところなくいただくことが、カニの命と料理人への感謝の表現です。 文化背景:旬の食材への感謝と、きれいに食べることの美徳 日本料理では、旬の食材をいただくことは、季節の恵みに感謝することと同意義です。そして、食材をきれいに食べ尽くすことは、その命を無駄にしないという美徳とされています。 |
温泉街には、湯上がりにぴったりの温泉たまごやソフトクリームなど、魅力的な食べ歩きグルメがあります。しかし、「道は旅館の廊下」です。ゴミをポイ捨てしたり、食べこぼしで汚したりしないようにしましょう。ゴミは購入した店に返すか、持ち帰るのが基本です。 文化背景:「もてなし」に応える訪問客としての責任 町全体で旅行者を「もてなす」という城崎の姿勢に対し、訪問客もまた、その「もてなし」の空間を汚さないという責任を負っています。この相互の敬意が、素晴らしい雰囲気を作り出します。 |
温泉街の中心を流れる大谿川(おおたにがわ)には、いくつもの太鼓橋がかかり、柳並木と共に風情ある景観を作り出しています。散策の途中、志賀直哉をはじめとする文人たちの文学碑を探してみるのも、この町ならではの楽しみ方です。

冬に城崎温泉に宿泊するなら、ぜひ松葉ガニのフルコースを。とろけるように甘いカニ刺し、香ばしい焼きガニ、そしてカニの旨味が凝縮された出汁でいただくカニすき(カニ鍋)。最後は、その出汁で作る雑炊で締めくくるのが定番です。

城崎温泉の旅を終え、日常に戻ったとき、あなたはふと思い出すかもしれません。柳並木の下を浴衣で歩いた時の心地よさ、下駄の軽やかな音、そして湯上がりの温かい体で感じた夜風の気持ちよさを。
それらの記憶は、あなたが単なる傍観者ではなく、この「まちという名の旅館」の文化に参加し、その一部となった証です。あなたが持ち帰るべき最高のお土産は、この町との心地よい一体感なのです。その感覚を一度知れば、きっとまた、この大きな旅館に「ただいま」と帰りたくなることでしょう。