「飛騨の小京都」で守るべき町衆の心得

深い山々に囲まれた盆地に、時が止まったかのような風景が広がっています。黒褐色の出格子(でごうし)が連なる古い町並み、造り酒屋の軒先に吊るされた杉玉、そして人力車がカラカラと石畳を行く音。岐阜県・高山市は、「飛騨の小京都」と称される、江戸時代の城下町・商人町の面影を色濃く残す場所です。
高山への旅は、単に美しい写真を撮るだけの観光ではありません。それは、木工技術の粋を集めた建築美に触れ、豪華絢爛な祭りに息づく町衆の情熱を感じ、そして飛騨牛や朴葉味噌といった豊かな山の幸に舌鼓を打つ、五感を満たす文化体験の旅です。
このガイドは、あなたがこの歴史的な町の良き訪問者となるためのお手伝いをします。高山の魅力は、観光客のために作られたテーマパークとは一線を画し、今も人々が日々の暮らしを営み、商いを続ける「生きた町」であることにあります。ここで紹介する心得は、その日常に敬意を払い、あなた自身の旅をより深く、本物にするためのエッセンスです。
さあ、暖簾(のれん)をくぐるように、敬意と好奇心を胸に、江戸時代へと続く扉を開けてみましょう。
なぜ高山は、これほどまでに豊かで独特な文化を築き上げることができたのでしょうか。その答えは、優れた職人たちの技と、彼らを支えた商人たちの心意気にあります。
江戸時代、高山は飛騨国の中心地として、幕府直轄の「天領」となり、代官所である「高山陣屋」が置かれました。周辺の豊かな森林資源(特に木材)や鉱物資源によって栄え、多くの商人が集まり、経済的に非常に豊かになりました。戦国時代の城主であった金森氏が京都を模した町づくりを行ったことが「飛騨の小京都」の礎となり、その後の商人たちが、その財力をもって文化の担い手となったのです。
高山の文化の結晶とも言えるのが、春と秋に開催される「高山祭」です。特に秋の「八幡祭」は、きらびやかな装飾が施された十数台の「屋台(やたい)」と呼ばれる山車が町を巡行します。この屋台は、「動く陽明門」と称されるほどの豪華さと、精巧なからくり人形の奉納で知られ、国の重要有形・無形民俗文化財に指定されています。この屋台を所有し、維持していくことは、各町の商人たち(町衆)の誇りであり、彼らの財力と美意識の象徴なのです。
古くから、飛騨地方の木工職人たちは「飛騨の匠(ひだのたくみ)」として、その卓越した技術で都の建設などに貢献してきました。その伝統は今も高山の町並みに息づいています。古い町並みの家々の精密な木組みや美しい出格子は、まさに匠の技のショーケース。高山祭の屋台もまた、彫刻、漆塗、金具など、飛騨の匠の技術の集大成です。
高山では、伝統的な町並みを守りながら、観光客がより深く文化に触れられる体験型コンテンツが充実しています。飛騨の郷土人形「さるぼぼ」作りや、和紙を使った小物作り、冬には「酒蔵めぐり」イベントなどが人気です。また、観光客の集中を避けるため、中心部以外のエリアの魅力を伝えるガイドツアーや、公共交通機関の利用を促進する取り組みも行われています。
高山は山間部に位置するため、季節に応じた準備が快適な旅の鍵です。

高山の町並みは、そこに住む人々の暮らしと共存しています。敬意のこもった振る舞いを心がけましょう。
「さんまち」と呼ばれる古い町並みの家々は、文化財であると同時に個人の住居や店舗です。壁や出格子に寄りかかったり、むやみに触ったりしないでください。また、住民の生活音が聞こえるほどの静かな場所です。大声での会話は控えましょう。 文化背景:「のれん」が示す、もてなしとプライバシーの境界線 店先にかけられた暖簾(のれん)は、「営業中」という歓迎のサインであると同時に、その向こうはプライベートな空間であるという境界線を示しています。許可なく暖簾の奥を覗き込んだりしないのがマナーです。 |
飛騨牛にぎり寿司やみだらし団子など、高山には魅力的な食べ歩きグルメがたくさんあります。しかし、歩きながら食べるのは、他の人にぶつかって服を汚す可能性があり危険です。商品は、購入したお店の前や、指定されたイートインスペースで食べるのが「その場食い」のマナーです。 文化背景:日本の「お行儀」と、公共空間での食事の考え方 日本では、公共の場で歩きながら食事をすることは、伝統的に「お行儀が悪い」とされています。食事は、立ち止まって落ち着いていただくもの、という考え方が根底にあります。 |
宮川朝市や陣屋前朝市は、観光客だけでなく地元の人々も日常の買い物に訪れます。狭い通路を塞がないように気をつけ、商品に買う前にむやみに触らないようにしましょう。お店の人との会話も朝市の楽しみの一つ。笑顔で挨拶することから始めましょう。 文化背景:朝市が持つ「商い」と「井戸端会議」の二つの顔 朝市は、商品を売買する「商い」の場であると同時に、地域の人々が集う「井戸端会議(コミュニティ)」の場でもあります。その日常の輪の中に、少しだけお邪魔させてもらうという謙虚な気持ちが大切です。 |
高山祭の屋台は、各町の宝であり、信仰の対象でもあります。精巧な彫刻や装飾に、絶対に手を触れないでください。祭りの期間中は大変混雑します。無理な割り込みや場所取りはせず、譲り合いの精神で楽しみましょう。 文化背景:祭りが持つ神聖さ(ハレの場)と共同体の誇り 日本の祭りは、神様を迎える神聖な「ハレ」の場です。屋台は、その神様が宿る依り代(よりしろ)とも考えられています。屋台に敬意を払うことは、その町の信仰と誇りに敬意を払うことと同じです。 |
高山には歴史ある造り酒屋が多く、冬には新酒の試飲が楽しめます。試飲は、造り手の好意で提供されるものです。感謝の気持ちを伝え、節度を持って楽しみましょう。気に入ったお酒があれば、購入することが造り手への一番の応援になります。 文化背景:造り手への敬意と、日本酒の奥深い世界 日本酒造りは、杜氏(とうじ)と呼ばれる職人たちの経験と勘、そして情熱の結晶です。一杯の試飲の向こう側にある、彼らの努力と物語に思いを馳せることが、日本酒をより深く味わう秘訣です。 |
歴史的な町並みでは、どこを撮っても絵になります。しかし、夢中になるあまり、他の観光客の通行を妨げたり、車の往来に気付かなかったりすることがないように注意しましょう。民家や人物を撮る際は、プライバシーへの配慮を忘れずに。 文化背景:「空気を読む」文化と、他者への見えない配慮 「空気を読む」とは、その場の雰囲気から、言葉にされていない相手の気持ちや状況を察して行動することです。撮影にベストな場所でも、後ろに人が待っていたら早めに譲るなど、見えない配慮が求められます。 |

飛騨地方に伝わるお守り人形「さるぼぼ」を自分で作る体験は、旅の良い記念になります。また、厳しい寒さと清らかな水に恵まれた高山は、銘酒の産地でもあります。毎年冬(1月中旬~2月)には、週替わりで酒蔵が一般公開される「酒蔵めぐり」イベントが開催され、新酒の試飲が楽しめます。

高山の旅を終えるとき、あなたの中には、美しい町並みの風景と共に、何か温かいものが残っているはずです。それは、豪華な祭りの屋台を自分たちの手で守り伝え、訪れる人々を温かく迎え入れる、この町に生きてきた「町衆の心意気」ではないでしょうか。
あなたがこの町でマナーを守り、歴史に敬意を払い、地元の人々との交流を楽しむことは、単なる観光客としてではなく、この町の文化を尊重する一人の訪問者として、その心意気に触れることに他なりません。その心意気のひとかけらを、旅の最高のお土産として持ち帰ってください。